生命の根源を探る

 先日、ある心臓の大手術をされた方(ここではTさんとします)に体調方々の回復度合いを電話にて尋ねました。その入院されていたところは大学病院で、半年ぶりの大掛かりな心臓のバイパス手術で、内外から手術見学が来るほど難手術であったとのことでした。一旦、心臓の動きを止め、機械に自らの血流を預け、血管のバイパスを通し、再び心臓の鼓動を蘇らせるという難手術だったそうです。Tさんは生死をさまよう体験をすると人間何も怖いものはない、と言われていました。
 生命の根源とは何でしょう?一つの命しかないとはいえ、身体中には無数の細胞一つひとつの命で構成されています。「意識」といえばそれまでかもしれません。意識にも顕在意識、潜在意識、無意識が存在します。
 顕在意識は我々が主体的に考え、行動することのできる意識のことを指します。潜在意識は習慣化した行動(呼吸、毎朝家を出るときに行なう鍵掛け行為等)を指し、常に深く意識した行動ではない意識を指します。無意識とは本来、人の持つ本能的な欲求が入っているといわれます。動物として生きたい、子孫を残したいというように、無垢な欲望とでもいえるかもしれませんが、原点はやはり「気持ち」が入っているということです。
 この「気持ち」が全ての生命を司る根源になるのではないでしょうか。気持ちがあると、それは生きる目的となり、活力の源となります。意識としても当然目覚めるでしょう。
 上記Tさんは今回の心臓手術の前も、脳梗塞による下半身不随の大病を患われていました。しかし、根っからの熱い気持ちを持つTさんは見事復活されました。某学園の建て直しや正義を正す活動等、大義に基づく諸成果で周りの人からの信認篤く、今も頼る人が後を絶ちません。
 「気持ち」のもう一つの重要な要素、それは体験・経験が培う「深さ/厚み」です。そこには体験・経験から本人しか得られない「学び」があるからです。この「学び」こそ、「気持ち」の源泉であり、生きる活力の源になります。可愛い子には旅をさせよと昔から言われますが、まさにこの本人しか得られない「学び」を、感受性の豊かな若い世代のうちに経験・体験させておくことが目的です。
 「学び」は気づきの源泉。気づきは自分がハッと目覚める瞬間でもあります。これは記憶の奥深くに刻み込まれます。ある意味、一生消えることのない抗体のように・・・。
 リスクマネジメントではヒヤリハットの法則とよく言われます。如何に日頃、放置しておくといつかは顕在化してリスクが脅威として襲ってくる事態になるかもしれない事象を見つけ出すか、これ自身は積極的な「気づき」を見つけていく作業になります。
 失敗から学ぶ、というタイトルの本も出ています。ただ、失敗とはチャレンジして思い通りにいかなかった結果自体を指しますが、これは行動した人にとっては貴重な学習の機会であり、決して真の失敗ではありません。真の失敗とは批判ばかりしてリスクを洗いざらい表に出し、やるべきことをやらないことを指します。気づき、学習の機会を放棄しているからに他なりません。
 生物もいろいろなリスクを経験し、自分にとって起こしたくないリスクを回避するための手立てを経験知として学習してきています。それが代々脳に刷り込まれ、本能として行動できる、ある種の習慣化となっています。(地上を歩いていた行動が、敵から身を守るため木に登るようになった、等)
 今の日本はこのような気づきを得る機会がめっきり減りました。それがゆえに、日本人の生命力そのものも非常に弱くなっている気がしてなりません。大きな気づきを得る機会は、人それぞれにおいてポジティブなケース、ネガティブなケース等、千差万別だと思われます。しかし、この気づきを得る機会を放棄してしまう今の日本人の思考回路そのものが、生命の根源である“生命力”を失わせてしまっている気がしてなりません。
 今こそ、大きな体験・経験・気づきを得る機会を積極的に取りに行く、もしくは受け止める、新たな自分自身の財産とする“機会”を見つけてみませんか。人生を歩む中できっとプラスになることと考えます。